ねこさかな日記

わたしの人生の備忘録。成長日記。

"正しくあること"が正義だと信じていた頃のお話

正しい人になることが正義だと信じていた頃のお話

こんばんは。
今朝、どこかの猫さんたちが突然家に遊びにきて、暫く一緒に遊んでいただいたのだけれど、猫という存在に対する愛情が溢れて溢れて苦しいです。日本の愛猫が恋しい、、、

 

大統領選の後、ポリコレに関するお話をあちこちで見かけたけれど、

そういえば私は、物心ついた時からずっと、”正しい人”になりたいと思っていた、と思う。

 

出来る限り自分のエゴを取り除いて、どんな状況でも全てを客観的に、多角的に判断できる人間になりたかったし、そうあることが正義だと信じていた。

自分に持てない視点があることが嫌で、自分が理解できない他人の感情があることが嫌で、そのおかげで本をたくさん読んだし、何に対しても自分なりの答えが出るまで考え抜く癖もついた。

 

でも、学んで、考えて、自分の持てる視点が増えれば増えるほど、色んなことに答えが出せなくなっていった。

 

例えば、部活動の中でいざこざがあったときも、 

「勝てたとしても、楽しい気持ちで喜べなかったらその勝ちには意味がない」と言っているAちゃんの意見も、「本気で取り組んだ時に、部活動は本当の意味で楽しく思えるものなんだ」と言っているBちゃんの意見も、それぞれの視点から見たら両方とも正しいと思ったから、自分の意見は選べなかった。
「本気で勝敗にこだわることは楽しむためにも大事だし、団結して楽しむことは勝つ上でもきっと大事だよね。両方大事だね」が限界だった。

それは、何も言っていないのと同じだった。

 

そんなことを続けているうちに、
ああ、世の中の事柄は、「これが一番大事!」の価値観がたくさんある以上、一つの正解を求めることはできないんだな、と思った。


世の中のあらゆる論争は、大体の場合、お互いの正しさの主張というより価値観の主張であり、利害の主張なんだな、と思った。


人間の行動は全て決断であって、ご飯を食べるのも、学校に行くのも、何かを選ぶと同時に何かを棄てることなんだと気付いた時には、“正しい人”になろうとすることはとても生きづらいことだな、と思ったし、

 

”正しいことだけを言い続ける”ということは”何も言わない”のとほぼ同じことであり、”誰の敵にもならない”ことは”誰も救えない、何も変えられない”ということだ、と思った。

政治だって多分そう。誰かの味方は、いつだって誰かの敵だ。改革を起こすのは、現状を否定した人だ。

 

そもそも私が“正しい人”になりたいと思ったのは、自分のエゴを無自覚に押し出して、他人を虐げたり傷つけたりしたくなかったからだった。
だから、誰かに悩みを相談された時こそ、“正しい答え”を返すことに一生懸命だった。
でも、"正しいこと"を伝えることが必ずしも相手を救うことにならないことも多かったし、それを頭では分かっているのに相手に"正しさ"をぶつけてしまうこともあった。
誰かのためのはずだった私の"正しさ"は、実は、他の誰でもなく私自身のためで、それは"正しくあることで自分に満足したい、安心したい"という私のエゴで、
それを脅かされることはいつの間にか私の弱点になっていた。

 

“正しくあること”が必ずしも正しくない、と気付いてからは、どんな価値観を核にして生きればいいのか分からなくなった。
それは、“正しくいれば救われる”という教義の宗教を一人で信じて、極めようとしていたけど、それを辞めて、何のためにどう生きたらいいか分からなくなった、みたいなことだった。

 

“正しい教”を辞めたあと私は、“優しい教”をやって、今は“強い教”をやっているのだけれど、その話はまた今度にしようと思います。いつか。

明日も猫さんたちが遊びに来てくれることを信じて、早めに寝ます。

おやすみなさい〜〜