こんばんは。
金曜日が終わった!!土日だ!!!
慣れないことが続いて体力を消耗したのか、今週は大分疲れました。でも楽しかったな。土日はたくさん本読もう。
春学期に、うちの大学で一番単位取得率の低い魔の授業を履修していたのですが、その授業がかなりの当たりで、知識以上にたくさんの考え方を先生から学べました。もちろん単位も無事回収しました。笑
その授業は近代短編小説の授業で、鴎外を専門にしている先生だったので、そのあたりの短編小説がたくさん取り上げられていたのだけれど、
先生がある日の授業でふと口にした言葉で、わたしの心の中にずしんと腑に落ちて、ずっと残っているものがあるので、今日はその話をします。
さて、小説というのは、疑似体験装置みたいなものです。
小説を筆頭に、”物語”の中には様々な登場人物が出てきて、私たちはその登場人物に乗り移って、その人たちの人生を疑似体験するわけです。
実際、私たちが生きていられるのはせいぜい100年やそこらで、自分の力で経験できることなんてほんのちょっとに限られています。高校生活だって、ファーストキスだって、一度しか経験できません。
だから私たちは、小説とか、絵本とか、ミュージカルとか、映画とか、ドラマとか、漫画とか、そうやって自分の入りたい物語世界の中に入り込んで、新しいことを感じたりするのが好きなのです。好奇心は本能。
「でも!小説なんて所詮紙とインクだし、やっぱり自分で経験してみないと分からないよ、人生は」なんて言う人ももちろんいて、それはもちろんそうです。その通りです。
自分で何事も経験できるなら絶対そっちの方がいいよ、でも、できない。
その上、(ここからが本題で、これが例の教授に言われたことなのだけれど、)
現実世界よりも物語世界の方が、体験できることの量も多いけど、それだけではなくて体験できることの幅も広く、密度も高い。
教授が言うには、
まず、小説は時代、性別、年齢、人種、国籍、住んでいる場所、何にも縛られない。日本で大学生をやって平成の世を生きているわたしも、平安時代の人たちの人生を生きることもできるし、未来の超カッコいいスーパーヒーローの人生を生きることもできる。本当に何にでもなれる。だから、体験できることの幅も広い。
そしておそらく、密度も濃い。というのは、小説の中には徹底的に余分な要素が省かれているから。
例えば、私たちが、デートの帰りに駅前で大好きな人に告白をする、という小説のワンシーンに入り込む時、おそらくそこに生まれる感情は、秘めてきた想いを伝えるドキドキとか、恥ずかしさとか、高揚感とか、彼に対するものだけのはず。
でも、実際同じことしようとしたら、「ああああ周りの人が見てるううう」とか、「髪型が風で崩れるうううう」とか、 そういう邪念も混じってくる。
小説の中には、ニヤニヤ見てくる他人も、髪型を崩してくる風も、存在を省かれているから、混じり気のない世界が展開されているわけです。その混じりけ無しにピュアに描かれているものが、書いた人が表現したかったものというか、私たちが小説から受け取れるものの正体。
そうやって、自分の立てない位置に立って世界や人間を見るだけではなくて、現実よりも色濃く色んなことを感じたり考えたりすることができるから、わたしは物語世界が好きです。その中に表現されたものも愛おしいし、その表現自体も。
というわけなので、土日は体も心も休めて、ゆっくり小説を読みたいと思います。