こんばんは。たくさん更新しちゃう。
わたしは”表現”が好きです。
わたしはこの「表現が好き」という表現の仕方を、高校生の頃からずっとしているかもしれない、そういえば。
わたしの父はギターが大好きで、結構本気で人生をファンクミュージックに捧げている人で、母は音大卒のピアノの先生です。
わたし自身も、5歳くらいから12歳くらいまで子役事務所に所属していて、お芝居や、歌や、ダンスを習っていました。お芝居や歌はやめてしまったけれど、中学高校大学とダンスをずっと続けてきました。
大学では大好きな英語を学びながら文学や演劇、ミュージカルの勉強をし、インターンの中で出会った広告に惹かれて、今はデジタル広告代理店でインターンをしています。
趣味のレベルだけど写真も好きで、エッセイや小説や詩や俳句も、映画も好き、美術館や美術展、音楽祭に行くのも大好きです。
音楽も、美術も、ダンスも、舞台芸術も、語学も、写真も、わたしの好きなものが全て”表現”であると気づいたのは、高校生の時でした。
そう思えた瞬間の、まさしくスティーブ・ジョブズが”connecting the dots”と言っていたように、わたしの過去の選択が全て一本の線ですっと繋がった気がした感覚をよく覚えています。
ダンスには、振り付けがあります。ピアノには楽譜があるし、お芝居には台本がある。
動作としては同じことをしているはずなのに、誰が踊るか、演奏するか、演じるかによって出来上がるものは全く違う。それは、演者の考え方や感じ方、演者の世界が、作品の中に”表され、現れている”からです。
規定の動きや物理的制限の中に自分の世界を目一杯投影する、”表現”、がわたしは大好きです。するのも好きだし、見るのも好き。
何気ない会話も、電車の広告も、毎日作るご飯だって、作り手が”そのもの以上の何か”を表現することを意図すれば全ては”表現”であり、その何かが”内”に向かうものであれば全ては”芸術表現”なのだと思う。
そして、少し脇道に逸れるかもしれないけれど、”表現”においては、敢えて「制限を設ける 」ことや敢えて「遠回りする」がとても大事だと思うのです。
例えば、「大きなかぼちゃ」を絵という手法で表現したい時、キャンバスを2個も3個もつなげて実物大で描くのは、表現ではないのだと思う。小さなキャンバスに、実際よりも暗い色で描くことでわたしがかぼちゃに対して感じる圧迫感や重みを表現しようとしたとしたら、それが表現なのだと思う。
あるいは、「人を信じることは大切なことだ」と表現したい時に、駅で道を歩いている知らない人に直接「人を信じるのは大切だよ」と話しかけても何も響かなくて、それは表現ではないのだと思う。だけど、それをわざわざストーリーに膨らませてみたり、逆に言葉を減らして五七五に乗せてみたり、舞台にして演じてみたりすると、不思議と、全く知らない人の心にも、時に重たく、時に希望を伴って、リアルに響く。
きっと、言葉がそうであるように、表現は全て人と人との心を結ぶ役割をするもので、そういう”分かり合えた瞬間”みたいなものが好きなんだろうな、わたしは。なんて人間らしいんだ。
まとまらなくなってしまったけれど、わたしは表現が大好きで、これからも表現をし、表現を受け取り、大好きな表現に囲まれて人生を生きていくのが楽しみです、ということです。
おやすみなさい!
すこし前に、お料理について書いた記事です。